@geeorgey

吉田丈治のブログ。その時考えてる事をつらつらと。リバネスとしての考えではなく、個人的なものです。

多様性は、豊かさ故に維持されている

ぼんやり考えててたどり着いた所はそこだった。

最近の日本は、目的がないままに豊かである。食うに困らないし、なんとなく生きられる社会を作り、衰退の一途をたどりながらも先人の作った遺産で食いつないでいる。

その中で、幸せの多様性を謳歌し、それゆえに悩み、迷走する。それが今の日本だ。

ことはシンプルではない。

本当の幸せとはこれだ!と言える何かというのは、もはや日本には無いのだ。価値観の多様化というのは実に厄介なもので、国全体としての総意というものを形成しづらい。

元気な国というのは、やっぱり一つの方向に国民の目が向いていて、そこに向かって猪突猛進している。(んだとおもう)そうじゃないと、○○国が今こうなっている!と、指摘できる人はいなくなってしまうし、結局勢いなんてものは言葉が形成するものだろうと思うからだ。

 

では逆に、今の日本だとどうなるのだろう。

日本は今ここへむかっている!と言えるものは1つとして見当たらない。そういう状態が暫く続いている。それ故の橋下市長の誕生という感じにも見える。一つの考えというものにまとまると言う事を欲し始めているのかもしれない。

 

さて、本題の多様性という話だが、結局のところこれは豊かな証拠なんだろう。貧しい国や、途上国と言った向かう方向性がわかりやすい国では、人々を一つの方向に向けるのは比較的簡単だし、ましてや扇動する事だって今の日本よりは圧倒的に簡単だろう。

そんな事を考えていたら、政治家にとって、国民の価値観の多様性なんてものは、ハッキリ言って面倒なモノでしかないんじゃないかなとか思ったりした。

多様性というのは、経験に裏打ちされ、色々な情報や体験にさらされた個人が持つ心の内面として形成される。対象がそこにあったとして、十人十色というのは、独裁的な社会ではありえないだろうし、色々な制限が解かれていく程に十色に近づいていくものなはずだ。

経験が不足しているか、もしくは自由が無いのか。それは大きなファクターだろう。

そして、経験というのは、経済的に豊かな社会である方が手に入りやすい。なぜなら地球は丸く、異文化を兎にも角にも体験できるような社会をつくろうと考えると、そこには輸送コストといった物理的な壁が必然的に介入するからだ。

東京にいれば世界中のものが食べられるとはかつて聞いた話だが、今でもある程度は現実的なラインであると言えるだろうし、そして異文化の食材がこれだけ食卓をにぎわす社会を国民として理解している人種もあまりいないんじゃないかなとか思う。(一部のお金持ちだけの元に文化が入ってくるというのは多様性の維持に寄与しない)

つまり、この総中流化された社会においても、これだけいろんな文化を取り入れるチャンスを作れたのだから、その中から取捨選択する自由を手にした今の日本人は恵まれた環境にいるんだろうなと。

ただ、恵まれたこそ故の贅沢な悩みで自分の首を絞め続けているんだろうね。

 

話は変わって…

日本が世界を相手に何かを展開するというのは、何を元手とするのかというと、この社会や国民性であって然るべきなんじゃないだろうか。今だからこそ維持できている奇跡のような社会で経験したものやことを、世界に向けて発信するような事で、人類を動かすことはできないだろうか。

 

個人的には、日本人が作ってきた社会は、ある程度まっとうにワークしてきたと思っているし(長時間労働除けば)おいしいとこどりして、うまく社会形成出来る国だってきっとあると思うのだが、そこには日本人が関わっていく必要があるんだろうと思うわけです。