平等な社会とは何だろうか(思考からこんなサービスどうだろうという話)
昨日こんなPostをした。
その後寝る前にモヤモヤと考えていたのだけれど、多様性というのはつまり、色々な境遇の元健全に育ち、それぞれの経験の中から自分の生き方を自分で選ぶ事が出来るという事に他ならない気がする。
わかりやすい言葉で極端に置き換えると
収入の差がものすごく大きく合ったとしても、それぞれのレイヤーできちんと健全に育つ(生きる)ことが出来且つ、例えば貧困層の人が一念発起して本気で何かを立ち上げることがあるならば、その立ち上げを支援する社会的余裕があるという状態なのではないかなと思うに至った。きっとそれが万人にチャンスを与えられる社会だ。別に現状に満足していればそういう生き方を続ければいいし、無理強いしなくても良い。ポイントは健全に、だ。
アメリカの大学進学みたいに、お金持ちじゃないとそこには居られないという状態はやはり多様性を生むことが出来る社会とはちょっと違うと思う。
抽象的な事ばかり話していてもあれなので、こんなWebサービスあったらいいなを考えてみた。
日本には地域性があって、やはりその地域や職業で得られる収入というのは異なってくる。それを明示できないだろうか。
収入、家族構成、固定資産、務めている企業、勤務時間、帰宅時間、家族と過ごすことの出来る時間数、保障などなど。人が生きていくにあたり、どの程度の指標が必要になるのかは、僕個人ではよくわからないのだけれど、きっと保険屋さんとかに聞けば詳しいんじゃないだろうか。
つまり、価値観が多様化しているということは、その人が欲しいと思うものの指標が多様化しているということだ。それらの指標をすべからくインデックスし、そういう人生を生きたいのであれば、ココらへんに行ってこういう生き方をするのが近道なんじゃないのって教えてあげるというサービスだ。ライフサーチみたいな。
もちろんやりたいことによって、リスクも伴う訳で。ここに行ってこういう生き方をしたいと思ってやってみると、なんとなく形になるまでこれくらいの時間がかかり、やっぱり生きていけないという確率もある程度あったりする訳で、そういうリスク評価とかもできたら便利だと思う。それでも本当にやる?みたいな感じ。
そんなサービスを作るには、いろんな組織や個人が、直接的に個人情報とは絡まない形で情報開示する必要があるのだけれど、それこそ社会的な総意としてあったらいいなにならないと厳しいかもしれないが。やりがいはありそうだよね。
なんでそんな事を考えているかというと、今の閉塞感って、やりたいと思うあれそれが漠然としているんだけど、やっぱり自分でやらないと満足しないというパターンが少なからずあるから。そして、やってみた先には絶対に新しいことが生まれる余地があるからだ。そこに生まれるはイノベーションです。
そういうサービスが大きくなってくると、きっと行政も乗ってくる。うちの地区ではこういうライフスタイルを実現させます。とマニフェストぶちかまして、地域活性なんて方法もあるんじゃないだろうか。地域活性って結局そこにどれだけ人がいるかに尽きる。田舎なら田舎くさーい生き方とか、そういうのばかりじゃなくて、それこそ先進的な都市空間を作りました。こんな働き方が出来る企業だけを誘致しています。どうですか?みたいな地域があったっていいんだろうなと。
人生は短い
まずはやってしまって、その結果どこへ向かおうか、というベクトル付けが出来るのであれば、きっと人生の最後に自分の生きざまを振り返って、後悔ばかりしながら死んでいくという事は少なくなるんじゃないかなと思うわけです。
多様性は、豊かさ故に維持されている
ぼんやり考えててたどり着いた所はそこだった。
最近の日本は、目的がないままに豊かである。食うに困らないし、なんとなく生きられる社会を作り、衰退の一途をたどりながらも先人の作った遺産で食いつないでいる。
その中で、幸せの多様性を謳歌し、それゆえに悩み、迷走する。それが今の日本だ。
ことはシンプルではない。
本当の幸せとはこれだ!と言える何かというのは、もはや日本には無いのだ。価値観の多様化というのは実に厄介なもので、国全体としての総意というものを形成しづらい。
元気な国というのは、やっぱり一つの方向に国民の目が向いていて、そこに向かって猪突猛進している。(んだとおもう)そうじゃないと、○○国が今こうなっている!と、指摘できる人はいなくなってしまうし、結局勢いなんてものは言葉が形成するものだろうと思うからだ。
では逆に、今の日本だとどうなるのだろう。
日本は今ここへむかっている!と言えるものは1つとして見当たらない。そういう状態が暫く続いている。それ故の橋下市長の誕生という感じにも見える。一つの考えというものにまとまると言う事を欲し始めているのかもしれない。
さて、本題の多様性という話だが、結局のところこれは豊かな証拠なんだろう。貧しい国や、途上国と言った向かう方向性がわかりやすい国では、人々を一つの方向に向けるのは比較的簡単だし、ましてや扇動する事だって今の日本よりは圧倒的に簡単だろう。
そんな事を考えていたら、政治家にとって、国民の価値観の多様性なんてものは、ハッキリ言って面倒なモノでしかないんじゃないかなとか思ったりした。
多様性というのは、経験に裏打ちされ、色々な情報や体験にさらされた個人が持つ心の内面として形成される。対象がそこにあったとして、十人十色というのは、独裁的な社会ではありえないだろうし、色々な制限が解かれていく程に十色に近づいていくものなはずだ。
経験が不足しているか、もしくは自由が無いのか。それは大きなファクターだろう。
そして、経験というのは、経済的に豊かな社会である方が手に入りやすい。なぜなら地球は丸く、異文化を兎にも角にも体験できるような社会をつくろうと考えると、そこには輸送コストといった物理的な壁が必然的に介入するからだ。
東京にいれば世界中のものが食べられるとはかつて聞いた話だが、今でもある程度は現実的なラインであると言えるだろうし、そして異文化の食材がこれだけ食卓をにぎわす社会を国民として理解している人種もあまりいないんじゃないかなとか思う。(一部のお金持ちだけの元に文化が入ってくるというのは多様性の維持に寄与しない)
つまり、この総中流化された社会においても、これだけいろんな文化を取り入れるチャンスを作れたのだから、その中から取捨選択する自由を手にした今の日本人は恵まれた環境にいるんだろうなと。
ただ、恵まれたこそ故の贅沢な悩みで自分の首を絞め続けているんだろうね。
話は変わって…
日本が世界を相手に何かを展開するというのは、何を元手とするのかというと、この社会や国民性であって然るべきなんじゃないだろうか。今だからこそ維持できている奇跡のような社会で経験したものやことを、世界に向けて発信するような事で、人類を動かすことはできないだろうか。
個人的には、日本人が作ってきた社会は、ある程度まっとうにワークしてきたと思っているし(長時間労働除けば)おいしいとこどりして、うまく社会形成出来る国だってきっとあると思うのだが、そこには日本人が関わっていく必要があるんだろうと思うわけです。
面倒くさいという感情にどう対処すべきか
公私共に。
面倒くさい事って割りとある。
そして、面倒くさい事って、生きるエネルギーを低下させる。つまり生産性が落ちるし面白くない。
最悪の場合、生きることすら面倒くさくなる。(人もいる)
これについての対処法を知っておくことは、きっと生きるにあたっての重要な要素な気がする。(当然人に寄るだろ)
僕の場合は、対処までは方法を知っている。
ただ、乗り越えるパワーというのをどうやってひねり出すのかについては、まだ答えを持っていない。
対処して忘れてしまうので許されるのであれば、それで良いのだが。
そうか、そこが境地か。
税金のかけかた
将来的に、日本は全国に居住するためのインフラが整った国ではなくなる。という話を前に書いた。
震災後、少しずつ未来について考えている訳だけど、人口減少と経済の縮小を考えたらやっぱりそれは仕方がない事なのではないかと思う。ましてや、原発という現代の科学技術では、時間を稼ぐことしか出来ない、根本解決不能な遺産が、日々状況を変えながら存在している。
前にも書いたのだけれど、今一度僕の考えを示しておくと
緩やかな経済縮小は悪
だと思っている。(今の時点では)
危機感を持たないまま、「今暮らせるし」という事で未来について考えを巡らせる事無く、真綿で首を絞めるように時間が過ぎていく状況。これが今の日本だと言えるような気がしてる。高齢者は逃げ切れればいいやと考えている節も見受けられるし、逆に若者は未来より今が大変でそれどころじゃない。
未来に対してV字回復という方法はあるか
緩やかな死は、本当に死んでしまうところまで言ってしまう可能性がある。その点で、ショック療法みたいな事はおそらく必要なのだろう。2011年は本当にいろんな事があった。それにもかかわらず日本は変われなかったという意見が散見しているが、変われなかったかどうかは数年後に分かる事だろう。
縮小する経済と共に、地域を選別しながら、最適化していく方法
そんなのが無いかなと思ってるんだけど、シンプルにこんな方法じゃダメなんだろうか。
住民税のかけ方なんだけど、インフラの維持費をちゃんと税金に乗せる。インフラというのは、上下水道だったり、電気だったり、ゴミ収集だったり、生活に関わる全ての物で税金が関わるもの。
おそらく山の中とか、過疎地で人口が少ない所とかは、一人が負担すべき金額は莫大な金額になると思うんだけど、結局はそれだけのインフラを使って暮らしているという事に気付くはずだ。
本当に守るべき観光資源などがあれば、そこに人を誘導する事に頭を使う事につながるだろうし、地域の資源をきちんとお金に変えていかないと、その地域には人が住めなくなる事は明白なのだからいろいろな方法を模索する必要が出てくるだろう。
そもそも何も出てこない地域というのは、やはりそこはずっとは維持出来ない。いずれ淘汰される運命にあると考えられる。
逆に、小さな村単位であれば、生活するためにどのインフラを維持するのかを検討する事にもなろう。住民で、何が必要で何が不要なのか。自分達で出来ることは何で、これは維持するために頭を使わなければならないという話になるはず。
もちろん、地域を離れるという場合のセーフティーネットは必要となるが、そこは税金で何とかする。
ある程度、地域を最適化する必要があるのだから、その地域へ移転するという場合はお金がかからないとか、助成金がおりるとか、そういう形を提示する。
生活コストが高い地域を最適化する事で、その地域が空洞化するのであれば、土地は国が買い上げて大規模農業の為の土地を確保するとか、なにがしかの産業用地にするということも可能かもしれない。(もちろんそのまま廃れる地域もあるだろう)
どこかのタイミングでそんな事をやらねばならない時期が来る。後は、誰が自分の責任で立ち上がるかだろうなとか思うのです。(絶対刺されると思うし、ボッコボコに叩かれるだろうから、政治家が長い人には難しいだろうなぁ)
趣味と実業の違い
教育とかやってるとですね、ちょこちょこ見る訳です。
引退した人たちがNPOで教育みたいなことを始めるというパターン。
志は認めますし、どんどんやればいいと思うのだけれど、そういうので上手くいってないパターン(つまりお金が集まらない)を見てると、そりゃそうだろと思ってしまう事はままあります。
いいことをやるためにはどうしたらいいだろうか
誰もが諸手を上げて賞賛することって、こと教育について言えば、少なくは無いと思います。
「その活動素晴らしいね」というキーワードがどこから来るかというと、やりたいけど自分たちにはできないなぁという立場から発せられる言葉であることが少なくないはずです。
何故同じ事をできないかというと、普通にやっていたらコストが合わないからですね。教育に関して言うと、本当にそうなります。そして、ボランティアが無料奉仕をするために、スペシャリティのない教育(誰でも出来るような付加価値の低い教育)については業者が淘汰されてしまい、最悪市場がなくなる事に繋がります。では、このボランティアが引退した人たちが創り上げたものばかりだったとしたらどうでしょう。若者は参入の余地がなくなりますし、雇用機会を剥奪するということにも繋がるのだろうなと思います。
いいことの実現方法
引退した人たちという観点から考えれば、私財をなげうって教育に投資する。これが一番シンプルです。中途半端に助成金に依存して、身銭を切ろうとしないから全然美しさが無い。それは志ではないんじゃないかなと思ってしまうわけです。
そうじゃない場合はどうするかというと、自分たちがやりたい世界を実現するためには何でもやらなくてはならない。それを実践する必要があります。
助成金が少ないから人が集まらない。っていうのは甘え以外の何者でもありません。そこにお金を集める能力が無い自分たちのせいです。
趣味と実業の違い
そういうわけで、こういう助成金に甘えている人たちが何を言うかというと、自分たちがやりたいことが素晴らしいんだから、そこに対してお金がついてほしいな。みたいな感じになるわけです。ただ、やっぱりやりたいことばっかりを、それが良い事だからという理由でやらせてくれるほど、日本には余裕が有りません。教育事業であれば、それをやることが目的になっているのであれば、教育事業を展開し続けられるにはどうすべきかをもっと考える必要がある訳です。
教育だけでお金が入ってこないのなら、その他の仕事をすべきなんですよ。それをやらないのであれば、そのNPOは趣味の範囲だろうとしか思えない。
Valueを追求しないと続かない
自分たちが提供していることの価値はなんなのか。それは教育のやり方です!と思っているのであれば、ちょっと頭の中お花畑が過ぎると思います。ましてや教育をやるのであれば、それは10年そこら続いたってほんものか分からないわけです。せめて20年、もっと長いスパンで自分たちが提供し続ける価値が世の中を変えていくんだという気概でやってほしいなと思います。
そう考えたら、助成金に頼るなんて絶対にあり得ないと思う。
僕がやるとしたら、残りの人生教育にかける!という引退した人たちをセミナーやらなんやらを開いて集めまくり、私財を投入する口座にお金を集めまくります。それを活動資金としていろんな場所で教育活動を行なってみる。
資金が集まれば集まるほど、そこに出来る大きなファンドが教育に資する訳です。恐らく直接的に教育に落ちるお金と、どこかに投資してその利益を確保していくみたいなやり方もそのうち出てくるのでしょう。
でも、こういう人って結構全国に居そうなんだよな。
考え方を説きながら、彼らを誘導するということが出来れば、面白いのかもしれないけど、言っても老人たちは頭が固い。僕らよりはるかにだ。そこを変えることを考えるなら直接的に教育に投入したほうがリターンが大きいよね、とか思っちゃうね。
人口縮小傾向の日本において、どこまでインフラを維持すべきだろうか。
最近ちょこちょこ考えているのは「地域活性化」というキーワードだ。(*このPostは会社の総意ではなく、現時点での僕個人の頭の中を示しています。今後変化がある可能性は大いにあります)
リバネスには地域開発事業部という事業部がある。地域が活性化する事が、我々の理念「科学技術の発展と地球貢献を実現する」に資するだろうということで暫く走らせてきた事業部だ。最近、この部分が割りと深い思考が必要な領域だなと感じている。
地域活性って何だろう?
つまるところ、地域が活性化した状態というのは、経済が上手く回っているという状態なのだろうと思う。良い人材が揃っているだとか、環境が良いとか、そういうのも、評価方法を考えれば経済が回っている事というのがついてまわると思うのです。
経済が回るってどういうことでしょうか
結局、経済に依存して考えるとすれば、それはお金が回っているという事にほかなりません。なにがしかの資源が、経済効果を伴って地域を流れる。そういう状態を絶え間なく回すということが出来る地域というのが、活性度の高い地域なんだろうなと思うわけです。
縮小する日本経済と地域活性
一方で考えると、日本は将来的に人口が減って行くことが明確にわかっています。世界の人口が増え続けるのを尻目に、どんどん減り続ける訳です。どれだけ効率よく、日本人が働いたとしても(そんな事すら考えにくいですが)減りゆく人口を考えると、日本の経済規模というのは縮小せざるを得ません。(現在の離島の人口減少傾向なんかはちょっと先の日本全体の縮図に見えます)
そして、生活するというのは、エネルギーコストがとても高いわけです。共同体・社会というものを、いわゆる限界集落を除いて、日本では気合で維持してきました。それは日本の隅から隅まで一律になんですよ。先人は頑張りました。
ただ、一方で最近では無医村があったりする。もはや、医療インフラは全国一律なんて無理な訳です。(というか逆か。ある程度お金があったからヘリ飛ばしたりできたけど、これからそのインフラを維持するのは難しくなるという感じ)
郵政民営化の際には、地方の郵便局は廃止だ!とか言って問題になっていた事が懐かしいですが、そんなの当たり前じゃないかと僕は思うけです。
だって、日本人は、日本全国で一律同じようなサービスを維持できるほどの、経済力が無いって事なんですよ。もう、ないの。それってしょうがなくないですか?
地域活性は善か悪か
そう考えると、やたらめったら地域活性だ!といって旗を振るのは迷惑な気もする。
だって、やっぱりどう考えてもこの地域は100年後に住民がいないだろうなという地域はあるわけですよ。将来限界集落になること決定な地域だって絶対にある。そういう地域を何とかする事によって、何かがうまれるのだろうか。真剣にそう思います。
一方の考え方としては、地域社会の維持に貢献することで、日本国内にいろんな環境で育った人たちを維持することが出来るという側面があります。つまり、人間的多様性の維持です。これのみが僕をポジティブに動かしうる理由な訳ですが。
極端な話、人口が激減したとしたら段階的に地域を放棄して、将来的には東京と大阪のみにしか街が無いなんてことにもならざるを得ない時期が来るかもしれません。そうなると、育ってきた環境が一律化されやすくなり、多様性は維持されなくなります。多様性が無い社会は、脆弱性を持つ訳で、きっと大きな変動には耐えられません。
そうやって日本が沈んでいくということも、100年、200年というスパンで見たらありえるかもなと思うわけです。
地域活性とはなにか
最近聞くところの地域活性は、新しい商品、目玉となる観光資源、そういったものをPRして人々に地域に来てもらい、経済効果を生み出しましょうというものが多い。これは、諸刃の剣なんですね。
その地域が目立てば目立つほど、周辺地域には人が行かなくなります。目立った地域を中心に、その周りの地域が厳しい状況にならざるを得ない。これというのはなぜかというと、日本にある経済規模というものは、国内だけで考えたら総量が変わらないからです。
日本という土俵の上にある、砂金の山を、こっちからあっちに移動させ、あっちからこっちに移動させる。シンプルに考えればそういう事になります。
東京に寄り過ぎなこの金の山を日本全体に平滑化すれば地方経済は救われるかというと、やっぱりそれはそれで違うということなのでしょう。税金で全てを補うことが出来ない時点でそう考えざるを得ません。(もちろん、国内に存在すると言われる貯蓄が、きちんと日本経済を還流する様になればまた違うかもしれませんが、投資という感覚より、貯蓄という感覚で進んでいる日本ですので難しいのかもしれません。)
国家グランドデザイン
そういう国の行き先というか、形の在り方を提示するのは国家のグランドデザインというらしい。最近はどんな感じで考えられているのだろう。2011年は激動の年だった。日本人の暮らしを根本的に見直すチャンスになった年だと思う。
政治的にも、日本の在り方をもっと説けば良いはずだ。(ぼくが聞く耳を持っていないということもあるだろうと思うのでその辺は変えていこうかな)
メディアは、もっと子どもたちが日本の未来について考えるような情報発信を行なっていく必要がありそうだし。
じゃぁぼくらは何が出来るのだろうか。というところにまた戻ってきてしまう訳です。
プロセスとしての地域活性
とはいえ、今現在でもリバネスは地域でいろんな事をやっています。各地域での取り組みはノウハウとなって蓄積していくのですが、これを活用して、地域で何かを生み出す仕組みというものが作れないかなとかも思う訳です。
一方で、震災当日に僕が研修を受けていた、六次産業化プランナーみたいな制度については、意味ないだろとか思うけどね。(上に書いた通り、如何に売るかみたいな所がフォーカスされすぎてるんだよ)
そういったわけで、色々とやりながら考えているという話でしたとさ。
*地域経済が保たれることの重要性
沖縄で観光産業についてちょっと関わっていますが、地域経済が廃れてしまうと、かつてそこにあった観光資源というのは、人の手が入らないことによってより手に入りにくくなるという側面はあるなとは思いました。
ただ、やはりそれも維持するのに相当のコストがかかる。それを日本は払い続けられるのだろうかということに帰着します。
何のために生きてるのかを考える
今年に入ってからか。311があったからかも知れないけど。
人間は100%死ぬ。
でもそれは、311前までは俺にとってはずっと先の事で現実味はなかった。311でそれは変わったように思う。
我々は目の前にある仕事をやっつけるためだけに生きている訳ではない。幸いな事にそれが成り立つ社会に生きている。でも、今日書くのはそういう大きな話じゃない。もっと身近な事。
今日の一日をどうやって生きるのか
もちろん目の前にある仕事をやっつける事も必要になるんだけどさ。
意識しなければならないのは、今やっている事によって、何が動いていくのかだと思う。動かしているという実感を持って時間を費やしていくという積み重ねの重要性。
朝起きて夜寝るまで。おはようから始まって、嫁と息子とコミュニケーションをとって、息子を保育園に送り届けたら、メールを処理して。午前中に雑務を全部片付けちゃって、午後にじっくりととりかかる仕事。そんな感じです、最近。
ただ、一方でやらなければならないのが人材育成だなととみに感じる。これは今の僕の課題であり、リバネスの伸びしろであり、社員の一歩先の創造である。楽しいよ。
今日一日で何が進んだか?君の一日で何かが動いたか。
まぁ、たまに浪費する時間も合っていいんだけどね。僕はメリハリのある人生を生きたいと思ってる。
僕は思っているけど、結論としては"思う"という事が一番大事なんだ。そんな話